【呉】九嶺の港町
may.2017
分厚い雲を突っ切って着陸体勢に入ったボーイング。機窓の雨雫は真横にすっ飛び、その背後にはジュディオングの舞台さながらスモークで演出された広大な空間が広がっている。
ぐずぐずとした天気の日はとても頭が痛い。気圧が低いからだとかよく分からない説もあるが、とにかくそんな日は大抵朝から気分がのらない。雨は止んだものの、リムジンバスに乗り換えても車窓に流れる景色は相変わらずのグレーで冴えない。まぁ別に景色に罪はないのだが、なんか損した気分になるのは事実だ。午後からの約束に備えて早めに着いた呉駅のロータリーでは、税関や役所が総力を上げて密輸防止の街頭キャンペーンを行っていて、着ぐるみキャラクターがボールペンを配っている。先を歩く、何故かテンション高めのセガミは、着ぐるみと一緒に写真を撮ろうと試みているが、いかんせん通学時間帯なので女子中学生らに先を越されて上手くいかないようだ。
「マエダさん、相当テンション低いですね」
そりゃそうだ、こちらは呑み過ぎでもないのに頭が痛い。税関の女性にアクロボールとポケットティッシュを手渡され、それをそそくさとカバンに仕舞うと、どこか座って朝飯でも食べる店はないものかねぇ、チェーン店は御免だけどと呟いた。セガミが買い替えたばかりのスマホに情報を打ち込んで即座に目星をつけたのは、ロータリーから目と鼻の先にあるテントの緑が鮮やかな森田食堂だった。
「こりゃまた渋い食堂やなぁ。とにかく入ろう」
入口の左側には小鉢に盛ったお惣菜などが並んでいて、おそらく夜勤明けなんかに食べに来る人が多いのだろうなぁと想像できる。店内は赤い短冊のメニューが壁一面に貼ってあって単品メニューも豊富だ。注文を取りにきたお母さんに肉うどんを注文すると、セガミは迷った末に親子丼を頼んだ。朝からどんぶりかよ…スゴいなとため息まじりで周りを見渡すと、先客は2人。入口の男性はテレビから流れる東京のニュースを見ながら中華そばを食べ、奥の男性のテーブルには大瓶2本と刺身がのっていた。おお、朝から“晩酌”か、ちょっと羨ましいなと小声で話していると肉うどんが登場。いわゆる関西や北九州のような柔らかい麺と昆布出汁がなんともやさしく、あっという間に平らげてしまった。
「お腹が苦しいです、マエダさん」
食べ過ぎだよ、それ見たことか。店を出ると相変わらず霧雨が降ったり止んだりの微妙な天気で、先の着ぐるみキャラクター達はもういない。少し気になっていた“ヤマトミュージアム”へ、まだ電車の時刻まで間があるからと向かうも、直ぐに本日休館日の札が見えて意気消沈。実は傘も持って来てないから、買ってまでウロウロするのもなぁと意味も無くプラモデル屋に入ったりして、せっかくの午前中の空き時間を無為に過ごした。
午後。JR呉線を乗り継いで向かった安芸川尻は、平家の落人が住んでいたといわれる野呂山(のろやま)の登山口としても有名な場所。列車から降り立つと海と山が同居したとても静かな空気が流れている。いくぶん雨足が強くなっていて、さすがに傘を買おうと近くのデイリーヤマザキへ行くが売っていない。困っていると店の奥さんが「どうぞ使って」と傘を持ってきてくださった。助かります、帰りに返しにきますからとお礼を告げて向かったのは古い集落の一角にある毛筆刷毛の工房。
その玄関には、いまはもう生産していない刷毛や大きな筆などの古い道具が飾ってあり、とてもレトロな佇まいだ。「近くの熊野筆はご存知の通り有名ですが、川尻筆も古くから書道家に愛用されているんですよ」社長の案内で2階の工房に上がらせていただくと、壁一面の棚には、様々な動物の毛を納めた箱や見たことの無い道具がズラリと並んでいた。ここで50年以上働くという女性から作業に関する説明を受けながら、どんなところが難しいですかと聞いてみるが「もう分かりませんねぇ」。どうやら考えるより先に手が動く感じなのだろう、そう話しながらも黙々と作業を続けている。
工房を出ると既に雨は止んでおり、西からの夕日が集落を美しく照らす。
クルマで駅まで送っていただく車中で「途中のヤマザキで傘を借りたから、店の前で降ろしていただけませんか」と社長にお願いすると「え、あそこはうちの親戚ですよ。返さなくていいよ、伝えておきますから」「いえいえ、そうはいかない」……、何とか降ろしてもらって、傘の礼を告げておやつや飲物を購入してから、タイミングよく来た列車に乗り込んだ。
「さっきさ、“難しいところはもう分からない”と言ったお母さんは職人でありながらも主婦だし、しかも家族同然の地元の工房ならもはやそれが生活のすべてで、職業というよりも農業の片手間で生活道具を作り出す農業工人(こうじん)的な境地なのかも知れんな」
「半世紀以上ですもんね。積み重ねてきた自信はもちろんあるんでしょうけど、無意識のプライドというか、もはや無心というか。道具とかキチンと手入れしてあってしかも仕事は早いし、かっこいいですよねぇ」
乗り込んだ黄色い各駅停車は、仕事終わりのサラリーマンや学生を乗せては降ろして呉駅へ向かってゆく。
「マエダさん、明日は急ぎの仕事もないし、せっかくだから泊まっていきましょうか。 明日は晴れるみたいですし少しは呉を散策したいですよね」
日帰りの予定で来たが、特に予定がなければ旅先で安宿でも見つけて一泊しようということになる……、やはりいつものパターンである。
「いいねぇ。明日は“両城の200階段”でも登ってから帰るか。軍港の街だけあって前は海、背後は三方を急峻な山に囲まれてて地形もかなり独特。呉一帯の峰々を“九嶺(きゅうれい)”っていうらしいけど、それが呉の地名の由来になっているという話もあるし」
「なんか朝のテンションと随分違いますねぇ」
「夕日が綺麗やからな、もう頭も痛くないし」
「実は、呉名物の“みそだき”っていう鳥串が旨い居酒屋を見つけてあるんですよ」
「おお、最新のスマホを使いこなしてるな」
すでに車窓は都会的な景色に変わっている。灰ヶ峰から続くニ河川の船泊りを過ぎ、明かりが灯りはじめたマンション群をすり抜けると、再び列車は賑やかな呉のホームに滑り込んだ。
[写真・文:前田義生]